平成最後の12月が終わった。
僕は12月末に肺がんを患っていた父を亡くした。11月に誕生日を迎えたばかりで、まだ67歳だった。
年末年始は父の死を悲しむ暇も与えられずあっという間に過ぎてしまった。
「あぁ、人が死ぬとこんなにやることがあるんだ」
と思わずつぶやいてしまったほど。
父が生きた痕跡が濃く残っている家族で暮らした賃貸も、もう引き払わないといけない。
ほんのすこしの形見と若い頃の写真だけを残して”父が生きた跡”というものはなくなってしまうのだ。
僕と母、父の兄弟である伯母と叔父たちの記憶には残り続けるであろう。
でも、
薄らぐのだ。
記憶というものは。
僕はそれがとても嫌だ。
年が明けて25歳になった僕は、ここまでの人生25年分をまっとうに生きればもう2回は繰り返すだろう。
写真に写ることをあまり好まなかった父の晩年の写真はほぼ、残っていない。
僕の手元には小学生のころの父の白黒写真数枚と、20代~30代であろう若い父の写真数枚しかない。
じゃあスマホならと見てみると、父の後ろ姿と声が聞ける短い動画しか見つからなかった。
後悔先に立たず。
人の生きた跡をかんたんに残せる時代に父を、父の生きた跡を残すことができないことがとても悔しい。
これから生きる人生で僕の頭の中から薄らいでいく父の記憶が惜しい。少なくとも今の僕にはとても惜しい。
だから、せめて文章にして残したいと思った。ほんの少しでいいから。
幼少の頃や青年だった頃の父ではなく、僕が生まれてからの父の25年間を。
記憶から消えてほしくない、僕だけが知る、僕のために生きてくれた父の人生を。
まず、最古の記憶の話をしたいと思う。
僕の中に残るいちばん古い父の記憶は、ビデオテープで撮影された父だ。
そのビデオテープも今やどこにあるのか、捨ててしまっているのかもわからない。
僕自身小学生の頃の記憶すら一部をのぞいて曖昧になっている。
だから、あくまでビデオテープを見た記憶でしかないが。
そのテープの中身は3歳前後の僕と父が雪遊びをしている動画。
まだ黒くて豊かな髪をした父が僕に向かって小さい雪玉を柔らかく投げて、僕がキャッキャと笑っているのを見て笑顔を見せていたのを鮮明に覚えている。
ところがこの記憶の中枢は父の笑顔ではなく、苦悶の表情である。
動画の後半で父は、僕が掴んで投げた直径30cmほどの雪(氷)の塊を手で受けそこねて股間で受けてしまうのだ!
かなり渋い顔をして股間を抑えてその場でピョンピョン跳ねる父と、それを見て大笑いしながらビデオを回す母の声を最後にテープが終わる。
正直この記憶は今でも笑うほど面白い記憶だ。
父の孫にあたる子がこれから先に生まれることがあれば真っ先に語ってやりたいと思う。
次に、僕自身がしっかり覚えている記憶で一番古いものの話をしたい。
成人を迎えるまでの僕が父に感じていたイメージは
タバコ、コーヒー、車、機械油
こんなところだろうか。
その中でも、最古の記憶というのはタバコとコーヒー、そして車に関する記憶だ。
父は酒こそやらないものの、昔から重度のヘビースモーカーで今はメビウスと名前を変えたマイルドセブンを愛煙していた。
一時期は1日2箱以上吸っていたはずだ。
父のタバコが切れるたび4歳のころからよく近所のタバコ屋に走らされていたのをよく覚えている。
僕のはじめてのおつかいは間違いなく家から徒歩3分のところにあるタバコ屋だ。
「俺はどんな病気にかかろうと、1箱1000円になろうとタバコはやめないな」
僕が父の健康を心配してタバコをやめるよう言うたびに返ってきた言葉だ。
まあ、ガンを患ったのがわかってすぐパタリとやめたわけだが。
とにかく、ダイニングでコーヒーとタバコ2本を吸うことが朝の日課だった父の姿は、たぶん、僕が死ぬまで忘れることはないと思う。
僕という人間は厄介なもので、「良い記憶」より「悪い記憶」のほうが鮮明に覚えているし、記憶に刻まれてしまっている。
両親がともにヘビースモーカーだったことは僕にとって当たり前のことだったので、しっかり覚えてはいるもののとくに悪い記憶ではない。
父とタバコにまつわる記憶ではっきりと悪い記憶だと言えるのは「家族でのドライブ」だ。
父の当時の愛車は日産の7代目スカイラインワゴンだった。今や当時の人気のなさから台数が少なく、レアな車扱いをされているらしい。
車に興味がわかない都会育ちの僕だったが、中学生の時に父にあの頃の車はなんだったのか聞くと、
「あーあれはな、スカイライン」
と自慢げに教えてくれたのを覚えている。もちろん、当時の僕にはスカイラインという単語だけじゃ一切理解はできなかったが。
その父ご自慢のスカイライン。
とにかく臭かったのだ。
タバコと芳香剤の混ざったニオイ。
バックミラーにぶら下がった葉っぱの形をした芳香剤と父のマイセンと母のマルボロのハーモニー。
僕は幼児の頃から乗っていたらしいが、乗るたびに5秒ともたず吐いていた。
乗るたび即吐きまくっていた記憶しかないが、母曰く、一度吐けばそのあとは窓を開けてどうにか耐えていたとのこと。
父ちゃんの車に乗ると吐くから嫌だ→でもドライブ一緒に行きたい→乗る→吐く
僕が小学4年生になったころ父が車を乗り換えるまでこのループから抜け出せずにいた。
とてつもなく、悪い記憶である。大事な思い出であるのは間違いないのだが。
余談だが、僕は「クレヨンしんちゃん」の主人公である野原しんのすけの影響で、両親のことは昔から父ちゃん母ちゃんと呼んでいる。もちろん一人称も「おら」だった。一人称のほうは家限定で小学生までの話。
次の話は前述の中から残った父のイメージである「機械油」の話。
父は昭和26年に生まれて(ちなみに父はオール巨人師匠と生年月日が全く同じだ)高校を卒業してからずっと「精密機械の修理」の仕事をしていた。僕が中学2年生になるまでの40年間である。
日本全国津々浦々はもちろん海外からの依頼も多かったらしく、よくロシアに行ったと話してくれた。
修理工としての晩年は個人事業主として仕事をしていたようで、父の工場が千葉県八千代市にあった。
父は休日もしばしば仕事をしていたので、僕もよく一緒に連れて行ってもらっていた。
父が仕事をする傍ら、僕は勝手に旋盤などの機械ををいじくったり金属の削りカスや緩衝材をエアーで吹き飛ばして遊んでいたのを覚えている。
160cmという小柄な背丈からは想像できないほど腕も太く背中も厚みがある父が、黙々と機械を稼働させコンマミリ単位の作業をこなす姿は小学生だった僕にはとてもかっこよく見えたものだ。
遊んでいるだけなのに父と同じくらい手を機械油で汚して、それを仕事を終えた父と一緒にスクラブ入りの洗剤でゴシゴシと洗うのが大好きだった。
作業着が機械油で汚れた父は、僕の誇りだった。
しかし僕が中学に上がる頃には、友達付き合いも増え休日に父についていくことも少なくなる。
それでも一般的な男の子と比べて、父親との関わりはとても多かったほうだと思う。
中学2年生になった僕は学校へ、父は仕事に出かけて、休みの日には映画に連れて行ってもらったりするごく普通の毎日が続いたある日、僕の中で先日父が死んだことに並ぶ大きな出来事が起きてしまった。
その日もいつもどおり父は出勤していき、僕はそのあと登校。なにも変わったことはなかった。
父は「いってきます」とは言わず「じゃ、いくからな~」と出勤していくのだが、その日も全く同じだった。
僕が部活を終えて家に帰ると、リビングのガラステーブルに父の字で「遺書」と書かれた封筒が置いてあった。
心がとてもざわついたのを覚えている。
かつてない不安で心臓がきゅぅっとなった。
僕は封もされていない封筒から1枚の便箋を取り出し、さっと目を通した。
内容としては「訳あって死を選ぶことにした。保険金がおりるからおばさんに聞いて受け取ってくれ」という簡素なもの。
父の携帯に何度か電話したがもちろん出ず、あまりに納得できなくて涙も出ない僕は、急いでおばに電話した。
「父ちゃんの遺書があった。自殺するって」
それを聞いたおばは僕以上に混乱したであろう。すぐさまほかの兄弟全員と自分の夫を呼び出し、おじ一人が住む祖母の家に集まった。
父に連絡がつかない以上、集まったところでなにもできないのはきっとみんなわかっていた。
今になればわかるが、あれは僕のためだった。
甥っ子の心が潰れないようにと、おじやおばが一緒にいてくれたのだ。
そのおかげだろうか。そこまで精神的に疲弊せずに済んだのか、泣くおばと深刻な顔をしたおじたちを横目に僕にはとある予感というか、確信があった。
「父ちゃんは帰ってくる」
事態を甘く見て楽観的すぎた、ということもあるのだろうが、確信があったと言わせてほしい。
父が帰ってくる気がしてならなかった。
その日を祖母の家で明かし、翌日も普通に学校に行った。
部活が終わって携帯を見るとおばから着信があったので折り返すと、「父ちゃんがこんなことになってんのになんで部活なんか行ってんの!」と激怒された。今でも耳に残っている。
おばの言い分は大いに理解できたが、僕は父が普通に帰ってくると思っていた。
そんなことを思っているとなんとなく知られたくなくて、「ごめんなさい」とだけ言って電話を切った。
結局、父はその晩も家に帰ってはこなかった。
それでも落ち着いてしまった心と父が戻るという根拠のない確信のせいで、僕はいつもどおり普段父と雑魚寝していた布団に潜り込んで眠った。
きっと次に僕の心臓がきゅっとなるのは、父の死が判明した時だろう、とぼんやり思いながら。
結果として、僕の予感どおり父は帰ってくる。
夜が明けると僕は、携帯のアラームでどうにか起きて、黙々と登校する準備をしていた。
食事は喉を通らなかったから、飲み物だけ。
そうして学ランを着て靴下を履こうとした時に、油が切れて重たい我が家の鍵穴がガチっと鳴った。
僕が片足裸足のまま慌てて玄関に顔を出すと、父がバツの悪い顔をしながら小さく笑って立っていた。
「おう」
まるでなんにもなかったように言うものだから、思わず僕は父に向かっていくつか喚いた。
でも、なんと言ったのか自分でもまったく覚えていない。
その瞬間で僕が覚えているのは、父の首にはっきり刻まれた1本の太い紫の跡だけだったから。
父が首を吊ろうとしたのは、消費者金融からの多重債務が理由だった。
負債額600万円。
中学2年生で僕は、たった600万円ぽっちのために父を失う寸前までいったのだ。
僕からの連絡ですぐさま駆けつけたおば夫婦を交えて、淡々と父が事情を話すのを聞いた。
実にかんたんな話だ。
仕事の景気が悪くなってきて、賄えない支出や生活費を消費者金融からの借金で賄ううちに首が回らなくなった。
ただ、それだけ。
父の兄弟たち曰く、昔から父は身内にも弱みを見せるのを嫌う性分だったそうだ。僕自身、そう思う。
物心ついてから初めて見る父の情けない姿だったが、帰ってきてくれただけで僕は良かった。
「どうしたらいいんだろうな」
弱る父の言葉に、僕はすぐ答えた。
「自己破産したらいいじゃん」
「仕事だって、父ちゃん日本全国回って道に詳しいんだからタクシーやったっていいじゃん」
そう答えながら、僕は少し泣いていた気がする。
「タクシーかぁ」
父はそれだけ言って、おばたちに頭を下げると僕を連れて家に一緒に帰った。
ここまでが、僕の記憶に痛烈に残る父の自殺未遂事件だ。
父がまたどこかへ行かないか心配する僕に「なんとかやってみるから、普通に学校いけ」と言った父。
それを信じた僕。
ほどなく父は二種免許を取得し、最寄りのタクシー会社で働き始めた。
本当に道に詳しく、本当の意味で運転が上手だった父は社内でもかなりの稼ぎ頭になった(らしい)。
実際見せてくれた明細もかなりの額だったのはたしかだ。
僕が高校を卒業するまでしっかり育ててくれた。
「天職かもな」なんて笑っていた父は、ガンを患ってからもしばらくはタクシー運転手でありつづけた。
父がタクシー運転手の制服に身を包むのを見たときは、機械油で汚れた父がもう見れないと思うと少しさみしかった。
でも、父は立派に僕の父親であってくれたと思う。父の晩年の人生は紛れもなく僕を育てるためにあったから。
一度、死を選ぼうとしたことすら僕に金銭を残すためだったのだから。
次は僕の学業に対しての父の関わり方を書きたい。
僕は自分に子どもが生まれることがあれば、必ず父がしてくれたように同じスタンスで向き合っていきたいと思うくらいでいる。それくらい当時のことには感謝しているのだ。
父は決して僕がテストで良い点数をとることを強要することはなかった。望んですらいなかったように思う。
僕は、父から「勉強しろ!宿題しろ!」とうるさく怒鳴られる経験もしてこなかった。
小学生になった僕はとある日の宿題をこなすのがとてもめんどくさくなったことがあり、それを父に相談したことがある。
「ねえ、今日の宿題やらなくてもいいかな」
「知らねえ、宿題やらないで怒られるのは俺じゃなくてお前だから」
父にこう返されて僕はまず「先生に怒られるのやだな」と思った。じゃあ先生に怒られないようにするにはどうするかと考えると、宿題をやるしかないのだ。
父に学業のことでなにかを尋ねるとき、いつだって僕自身に選択肢があった。
たとえば僕が先生に怒られるのを厭わず、翌日宿題をやらずに登校したとしても、きっと父はなにも言わなかっただろう。
それが僕が選んだことだからだ。
それからごく普通に過ごし、小学生での僕の成績はどちらかというと優秀だったと思う。(ただし僕の世代は学年全体がテストで90点以上は当たり前くらいの雰囲気が手伝ったのもある)
中学でも数学が嫌で嫌でしょうがなかったこと以外はまあ無難だった。
父は「ものづくりと機械いじりが好きなのは俺の血だな。数学が得意なのは似なかったか笑」と言っていたが。
そんな中、僕は高校入試が迫る中学3年生の12月にも一悶着起こしていた。
あろうことか僕は高校に行かない選択を選ぼうとしていたのだ。
独学で簿記を覚え、海外のつてで生きていくと、なんとも計画性のないビジョンを描いてしまった。
そんなときも父の言葉で、進路を変えた。
「独学で簿記覚えてあっちでやってくから」
「まあ別にいいけど、簿記は教えてやれないしあっちでの生活も保証できねえからな?高校で簿記勉強するならその間は確実に面倒見てやれるけどよ」
実を言うと簿記に関して、父をちょっと当てにしていた。数学がめちゃくちゃ強い父もいれば問題ないんじゃないかな~なんて。
現実は甘くないし、自分一人でやっていこうとしたら日商簿記1級は必要だっただろう。断言するが当時の僕でも今の僕でも無理だ。
というわけで僕はギリギリで願書を出し、無事どうにか都内の商業高校に進学。
余裕綽々で合格だったわけだが、合格発表の日は死ぬほど緊張したのを今でも覚えている。
父はいつでも僕の選択肢を否定せず、父にできることを淡々と提示してくれた。
僕の自主性というものは父のおかげでまともに育ったのだ。
学業に関してもうひとつ。
僕の学業に対しての取り組み方が決まった言葉がある。もちろん父の言葉だ。
「授業だけちゃんときいてれば、宿題も塾もいらない」
僕はこの言葉のとおり生きてきた結果、テストという面でみると比較的優秀な部類の生徒で過ごすことができた。
中学では塾でゲームをして過ごしているという友達を横目に家でゲームをして過ごしたし、高校でもバイトと遊び三昧でもMARCHレベルの推薦を出してもらえるくらいでいれた。
父にとっても、比較的優秀な息子だと思ってもらえていたように思う。それは父の功績だ。
そもそも、今の僕を作ったのは父だったのだから。
こういう思い出をなるべく薄れさせない記録として、ここまで書いてきた。
もちろん父の話は書こうとと思えば5万字以上書けるが、僕の中にしまっておきたい些細なこともある。
僕だけが知っている父の姿も残しておきたいなと、キーボードをタイプしていくうちに思えてきたのだ。
最後にもう少しだけ父への気持ちを書いて終わりにしたいと思う。
タバコをやめないと頑なに言っていた父も、結局ガンを患ったことがわかってピタリとタバコをやめた。
ショックだったのだろう。
「肺がんになっても俺はタバコをやめない」
ではなく
「タバコは吸っているけど俺は肺がんにはならない」
と、高をくくっていたのだと思う。
併発していた肺に水が溜まっていく肺水腫という病気の手術をきっかけに、父はみるみる痩せていった。
僕は日に日に弱っていく父を見るのがとてもしんどくて。
太かった腕も足も、最後はほとんど骨と皮だけだった。
父はタバコくさかったし、不精ヒゲも痛かった。
そんなに綺麗好きじゃなかったし、弱みをけっして見せたがらない人だった。
それでも、そんな父が、僕はそんな父が大好きだった。
でも、最後の瞬間まで息子にまで弱った姿を見せたがらなかったことを僕は今でも歯がゆく思っている。
最後に正面から顔を見たのは父が亡くなる2週間前。
体を起こして座る父の小さい体躯を見て、僕はただただ泣きそうになった。
親孝行らしいことなんてまでできていないのに。父がこのままどんどん小さくなってなくなってしまうのではないか。
そんな不安を抱えて解決できないまま、父は逝ってしまった。
父と交わした最後の面と向かっての会話は、僕と彼女の仲がうまくいってるかと問われたことだ。
僕が父と暮らした家を出て彼女と生活を共にして半年。
家を出るときも、最後の会話でも
「彼女と仲良くな」
そればかりだった。
父の葬式で久々に顔を合わせた伯母が、僕が実家を出た後に父と電話で話したという。
「息子は所帯をもった。安心した」
と伯母には話していたらしい。
まだ結婚こそしていないものの、実家を出たということ自体が父にとっては大きなことだったのかもしれない。
僕にできた父への親孝行は、自立して実家をでたこと。
僕がこれからできる父への親孝行は、彼女と末永く幸せになること。
僕がこれからの人生で戒めないといけないことは、父から常々言われていたこと2つ。
時間を守ること。
金銭管理にルーズにならないこと。
あまり怒らない父が、僕に常々言い続けてきたことだ。
もう、父は僕がなにをしても面と向かって怒ってはくれない。
僕が父にまた会える時に、恥じることない人生を送ること。
そうすることで父への手向けとしたい。
父ちゃん、おかげで25になったよ。どうにかやってくからさ、見ててよ。
ありがとう。